母の旅立ち~②

ALS

15日の午前中に斎場から母を迎えに来ると言うので、家を出て8年間実家に帰れてなかった母をできる事なら自宅と施設を回ってもらえないか頼んでもらったのですが、さすがに遠かったので叶えられなかったみたいです。

斎場に行き、清体と最後のお化粧をしてもらっていました。人生で一番と言っていいほど若くて別人みたいに綺麗になっていました。母は綺麗なものが好きだったので 自分が綺麗にしてもらって喜んでいたと思います。斎場が狭いのでお供え物は控えるようにと弟が言ってきたそうですが、せめて母の顔を花で飾ってもらいたいと主人に頼むと すでに生花を頼んでくれていました。

長男達は16日の夜に兵庫を出発して17日の通夜が終わったらそのまま帰って行きました。遠いから無理しないで!と話したけど、ばあちゃんとしっかりお別れをしたいと帰って来てくれました。次男と三男の家族たちは、17日の朝に出て次の日まで居てくれました。孫たちに頼んで色紙でいろいろ折ってもらいました。

通夜と18日の告別式にビデオ通話を繋いで私も参加しました。出棺時には生花で綺麗に囲まれ 孫たちの折った折り紙でカラフルに飾ってくれていました。従姉が「清あんちゃん(父)会ったら声かけんと分からんよ~」と声かけてくれてました。※綺麗にお化粧してたから

その後車を見送りました。火葬後再びビデオ通話でつないでもらって母の最期の姿を見届けて終わりました。

収骨を終えて、お寺に移動して初七日の法要と納骨までしてくれました。納骨の時、母の遺骨を父の遺骨にくっつけて置いてきたそうです。父の時と同じように最後まで従姉たちが居てくれたそうです。感謝してもしきれない位ありがたかったです

母の思い出と言えば...ソフトボールより大きな塩のにぎりめしです。朝ごはんによく作ってくれました。末っ子で甘やかされて箱入り娘で育った母は、料理もそんなに上手ではなかったけど 竹の子の煮物が美味しくて 私も挑戦したけどあの味は出せませんでした。

私は、ばあちゃんっ子で育ちました。15歳中学校を卒業して名古屋に就職しました。出発の時、駅まで見送りに来ていた母がハンカチで顔を覆って泣いていました。今でも目に浮かびます。その年の夏に帰った時、母が時々私の事思い出しては しゃがみこんで泣いてたと祖母が話してくれました。あらためて母の愛情感じた時でした。

夫婦喧嘩ばかりしていた両親ですが、老後はお互いを必要する姿を見せてくれました。時には父の話す、トンチ話にツボって涙流して笑う母の顔も思い出します。

きっと今頃は、祖母や叔母たちと会えてるかな~父と仲良くね~って思う毎日です。

(最後までお付き合いいただいてありがとうございます) m(_ _)m